脱力日記

脱力おばさんの思い出話やつまらない日常を綴るブログ

「忖度弁当」に見る日本の様式美とは

この世の果て

うむ。
末世も、行くところまで行った、みたいな。

けっこう旨いとか、品切れという話があったりで、よくわからない。

苦いものは、薄めてから

日本人というのは、だいたい、こうなのかな、と。
「ショッキングなこと」を、そのまま「ショーック!」と言って、受け止めて、大騒ぎをするのではなくて、薄めてから、飲む、と。
だいたいの話が、なぜ「忖度」が、人の口に上り、流行語になったのかということを思えば、弁当にして食っている場合などでは、絶対に、ないのである。
そうであろう。
「時の権力者」が、ありとあらゆる人に、忖度をさせ、威張り散らかしているという、そのことが、誰の目にも、ごまかせない状態になってきたから、「忖度」なんていう、死語が、復活したのである。
だから、笑っている場合では、ないんだよ、ほんとは。
しかし。
やっぱ、こういう感じなんだな、と。
「ショッキングな気付け薬」というのは、なんとなく、薄めて、飲める程度にしてみよう、それから、飲むかどうかは、考えよう、と。
そういうのが、「日本の文化」だと、いうことだよね。
そうそう。
弁当にして食っているうちに、それほどショッキングでは、なくなってきて、「安倍さんには、まあ、困ったものですよねえ、あはは」なんて、おじさんどうしが、酒の肴にでもする。
本当は、そういう受け止め方でいいはずは、ない。
これは、「独裁者ができてしまったから、法治国家ではなくなってしまった」という、ものすごい深刻な問題、なのである。
が、とにかく、とにかくそういうふうにするというのが、「日本の様式」、なんだろう。
なんでもそう、苦いものは、そのまま飲まない。
もしかすると、生きる知恵としては、すごい練れている、ということなのかもしれないのだが、これで、本当にいいのかどうかは、わからない。
が、キリスト教や、英語も、この文脈で、「なんとなーく」拒否してきているわけで、そして、これ以外のやりかたで、拒否ができたのかどうかは、かなり怪しいとは、言えるのである。