脱力日記

脱力おばさんの思い出話やつまらない日常を綴るブログ

日馬富士は、親方にはならない

もうちょっと稼ぎたかった日馬富士

日馬富士は、親方にはなら(れ)ないらしい。

「ビール瓶で殴打という報道が出た2、3日後、伊勢ケ浜親方(57=元横綱旭富士)が日馬富士に引退を迫ったと聞いています。しかし、その時点で日馬富士は『まだ現役を続けたい』と、引退を拒否。親方は一晩かけて説得したが、日馬富士は『それだけは……』とクビを縦に振らなかったようです」

そうか、帰化していないから、親方になれないので、今クビになるのは、困るというのが、あった…のか。
それに、もうちょっと稼いでから、帰るつもりだったのにと。
しかし、そういう状況ならば、なぜ「自重」しないのだ。
よくわからない。
そして、今回の日馬富士の件で、ものすごくよくわかったのが
大相撲は、金である
ということだ。
当たり前のことだけど、特に、外国人力士の場合は、金のためなんだな。
やるのも、やめるのも、まずは「金の都合」が、関係する、と。
そもそもの話が、外国人力士を受け入れ始めたこと自体が、金のため、であった。
よそよりも、強い力士がいれば、部屋が儲かる。
そして、モンゴル力士が増えてみたら、日本人力士よりも、モンゴル人力士のほうが、相撲が強いということは、証明されてしまったのであって、そうなると、われもわれもと、どこの部屋も、モンゴル力士を欲しがるというのは、仕方がない。
そして、今では、4横綱のうち3人がモンゴル出身という、奇天烈な結果になった。
とにかく強い力士が、土俵に上がって、勝負を見せてくれれば、それでいいなら、それでいいんだよ。
「マゲを結ってやるスポーツ」というふうに、割り切れるなら、それで、いいじゃん。
しかし、割り切れなかったのは、客のほうだったんだな。
モンゴルなり、東欧から来るお相撲さんは、最初から、金のためと割り切っているわけだし、協会側も、親方衆も、後援会も、「金のため」「部屋のため」というふうに、とっくに割り切れていたのに、最後まで割り切れなかったのは、客だったんだ。
どうしてかというと、それはまあ、私も思うけど、「お相撲さんぽくない」から。
もともと「スポーツじゃないもの」を、「金を稼ぐためのスポーツのうちのひとつ」というふうな認識で、やられれば、それは、見ているほうは、「なんか違うな」というふうに、思う。

閉鎖的でも、いいじゃないか、廃れても、いいじゃないか

前の記事でも書いたけど、私は、白鵬ですら、「本物のお相撲さんぽくはない」というふうに、思っている。
私が、最も「お相撲さんぽい」と思う力士は、横綱時代の貴乃花で、ああいう、「人ならぬ感じ」、人であって、人でない、感情のない感じ、あれが、正しいお相撲さんのありかただろうと、思う。
「努力をして、感情を押し殺している」ということが、わかってしまうようでは、まだ、「人」なのである。
が、それでいいなら、それでいいんだけど、朝青龍とか、日馬富士とか、こういうことがあると、やっぱり、無理があるんじゃないのかな、という気は、してくる。
だから、もう、日本人だけでやって、儀式化して、廃れて行ったらいいんじゃないのか。
歌舞伎なんかも、外国人を受け入れたりはしないんだから、あれなんかも、「排外的」と言えば、相撲以上に排外的なんだけど、「歌舞伎は外国人を受け入れろ」などと言って、叩かれてはいないのである。
もう、そういう「伝統のヤツ」は、「閉鎖的」ということで、それでいいじゃないか。
それで廃れるなら、廃れて行ったらいいねん。
無理をして外国人を入れて、いじめるとか、負けろというヤジが飛ぶとか、いじめられたほうが、モンゴル互助会を作ってしまうとか、そういう「ややこしいこと」になるくらいなら、そのほうがいいと、思うんだよ。
そもそも、相撲というのは、「なくても困らないもの」ではないか。