脱力日記

脱力おばさんの思い出話やつまらない日常を綴るブログ

大阪毛染め問題

大阪毛染め問題

2つくらい思うことがある。

ほかのことには、反応が鈍いのに

ひとつは、この件が、どうしてこんなに騒がれるのか、どうしてこの件に「反応」している人が多いのか、という普通の疑問である。
この問題は、当事者にとっては、大問題であるに違いないが、そして、ことの成り行きが、ここで報道されているとおりなのだとしたら、人権侵害であるが、「この件」について、こんなに反応する人が多いならば、「ほかにも、もっと、反応しなければならない件があるだろ」と、思うからだ。
安倍普三の友達が、準備強姦をしたという容疑を逃れているうえ、マスコミが忖度をして、取り上げようとしない件。
沖縄の運動家が、微罪で逮捕され、起訴もなく、半年くらいの間拘留されて、国連で人権侵害を訴えた件。
イスラエルも買わないような、オスプレイのような欠陥品のヘリコプターが、日本国民の頭上をぶんぶん飛んで、落ちているのに、そして、日本政府が、飛行を停止してくれと頼んでいるのに、米軍が拒否をしている件。
髪染めの件は、本当だとしたら、ひどい話だが、上のような「もっとひどい話」を「スルー」している人たちが、髪染め強制はけしからんと言っているのは、非常に何か、奇妙な光景にうつるのである。

ファシズムを求めたのは、大阪の人たちである

さらに言えば、橋下徹が大阪の政治を乗っ取ってからは、ヤンキー上がりの政治家たちが、ぞろぞろと集まってきて、専横を極めているということは、みんなが知っているし、今に始まったことではないではないか。
維新の政治家たちというのは、どう見ても、若いころは、竹ヤリを立てた改造車に乗っていたに違いないとか、コンビニとか自販機の前で、しゃがんでタバコを吸って、クダを巻いていたに違いないような、そういう人たちである。
政治や行政とは、最も無関係。
「就職」のつもりで、「おいしい話」だと思って、敷居の低い政党にやってきて、当選したら、あとは、「やること」と言ったら、知れている。
「自分を富ませること」「威張る」「他人から搾取すること」。
だいたいが、毛染めの前に、教員への国歌強制とか、口元チェックとか、そういう奇天烈な事件があったんだから、生徒に対してだって、「大日本帝国的な姿勢」で、対処するに決まっているではないか。
教員に対して、そういうことをするならば、生徒には、もっとひどい扱いをするに決まっているのである。
大阪の人たちは、「そういう感じでいい」と思ったから、そうなっているわけである。
大阪の人たちが、橋下的な政治を求めたから、教育のほうだって、そうなったのである。
今さら、何を言っているのか、と思う。
さらに、大阪以外でも、維新に投票している人は、いるわけだし、橋下的なものが登場してから、何年も経つのだから、「橋下的なものはダメだ」というふうに、宣言をしてこなかった人たちは、「髪染め指導がひどいじゃないか」などと、びっくりしたふりをしているのは、はなはだ偽善的なことなのである。
あなたがた、何を言っているんですか、と。
とぼけるのは、やめたほうがいいですよ、と。

大阪は壊れている

そう言えば、大阪府警の機動隊員が、沖縄県民を「土人」と呼んで、蔑んでも、クビにならなかったという事件もあったが、「それでもいい」と思っているのが、大阪府民なのだから、しょうがないではないか。
中国人の観光客に、すれ違いざまに、後ろから蹴りを食らわしたのも、大阪府民のうちの誰かだったはずだし、中国や韓国の観光客に「わさびテロ」をやった鮨店も、大阪だったはずだが、大阪府民たちは、「それでもいい」「恥ずかしくない」と思っているのだから、しょうがない。
「東のほう」では、大阪というのはもう、数年前から壊れているというのが、共通の認識である。
東のほうだって、壊れてはいるが、大阪のほうが、ひどい。

地毛証明書は?

昔、「積み木くずし」という本があって、映画化もされたが、その主人公の女の子は、やはり地毛が茶色いので、いじめにあっていた。
しかし、学校側が、「地毛証明書」というのを出していたはずである。
だから、それを見せれば、染めていないということの証明ができる、ということであって、それでも、いじめる相手はいじめるのだが、少なくとも、「先生たちからのいじめ」は、回避することができた。
今回の大阪の場合には、そういう証明書は、発行されていなかったのであろうか。
そこらへんが、疑問である。

「おしゃれ」のために茶色くするのは、別の話

地毛をそのままにするというのは、当然の話だから、地毛の場合には、「地毛証明書」を出せばいいとか、学校で、「地毛が茶色い子を差別してはいけない」という教育をすればいい、という話である。
が、私は、中高生のうちから、身なりに金をかけて、髪の毛の色や形を激しく変えるということは、いいとは思っていない。
それは、人は、10代のうちから、そんなことにばかり精を出す必要はないと、身を持って知っているからであって、そういうことは、大人になれば、永遠にできるから、あとでやればいいから、今は、ほかのことをやるべきだと思うから、である。
服装などのおしゃれも、そうである。
10代のほんの数年の間、「身だしなみに精を出すこと」を我慢させたからといって、それが人権侵害だとは、別に思わない。
だから、そういうことは、大人になれば、死ぬまでできるんだから。
それが「権利だ」というふうにも、別に思わない。
大人になれば、誰でも、勝手にできるんだから。
若いうちの数年の間だけ、ものすごく地味な格好をして、勉強とか運動とか、まじめなことに精を出すということが、馬鹿げた考えだとは、思わない。
そういうことは、経験する価値があり、そして、そういう経験がなければ、「自分の勝手にできるようになったときの喜び」というものも、得られないのである。

学校ネタに「ばかり」過剰反応しすぎ

学校関係の事件ネタには、過剰反応する人が多く、それは、自分の学校時代のなんらかの面白くない思い出と、重ねてしまうからである。
が、普通に考えて、私の世代のころが、スパルタのピークだったはずだから、私よりも下の世代の人は、私よりもひどいスパルタ教育を受けたというはずはなく、そういう人たちが、ほかのことには鈍感でも、「学校ネタ」には、やたらに敏感で、いちいちと過剰反応をするというのは、変な話だな、とも思うのである。