脱力日記

脱力おばさんの思い出話やつまらない日常を綴るブログ

私はモンスターペアレントになっていただろうか

あのころの「テキトー教育」の産物である「私」

今思えば、の話だが、私の小中学生時代というのは、かなり、滅茶苦茶な教育をされていたような気もする。
大日本帝国陸軍的な、スパルタ教育が全盛の時代だったのではないかと、思う。
そういうのは、後になって初めてわかるものであって、どうしてわかるかというと、「最近は、そうではなくなったらしいから」、である。
モンスターペアレントというのは、私のように、軍国主義を引きずった、人権無視の学校制度の中で、ひどい扱いをされた人たちの「復讐心だ」というふうに、言われたりするが、私は子供を持たなかったので、どういう親になっていたのか、わからないから、その人たちが、本当にそういう気持ちでやっているのかどうかは、知らない。

大日本帝国陸軍的校長

小学校のときの、ある校長先生は、朝礼で、「暑いときには、寒いと思え、寒いときには、暑いを思え」と、小学生に向かって、教えていた。
…今だったら、問題になるんだろうなあ。
暑いときには、暑いんだから、寒いと思うことは、できないのだが、それを可能にするのは、「根性」であるらしい。
その校長先生の頭の中では、「根性があれば、なんでもできる」と言って、戦争をやったら、敗けていたという事実との「整合性」は、どこで取れているのか、わからないが、とにかく、そういう感じだったのである。
まあ、あの時代の子供は、「食うに困る」ということは、すでになかったから、そういうことをいくら教えても、「真に受けた子」とか、「身に着いた子」というのは、居なかっただろうと、思うのだが。

仰天の伝統

私が卒業した小学校には、ぎょっとするような「伝統行事」が、あった。
それは、「表面」だけを言えば、6年生の後半になると、給食の時間に、数名ずつが校長室へ行って、校長先生と一緒に給食を食べる、というものだった。
どうしてそんなことをさせられたのかって、それはどうも、卒業前の「記念」という、ことらしかった。
なので、全員が、一度はそれに呼ばれたのである。
問題は、校長先生が、ひとりひとりに、「お父さんの職業は?」というふうに、質問をして、父親の職業について、根掘り葉掘りと、詮索をしていた、ということなのである。
当時は、子供だったので、そういうものかと思っていたが、あれは、かなりとんでもないことだったなあ、今だったら、大問題だろうと、思う笑。
お父さんがいない子とか、お父さんが無職の子とか、お父さんが刑務所に入っている子なんかは、いったい、どうしたらいいのであろう。
私自身は、自分が呼ばれたときのことしか知らないので、どうなっていたのか、わからない。
校長は、そうやって、自分の天下り先でも探していたのかもしれないし、単なる慣習だったのかもしれないし、わからない。
しかしまあ、「今」は、もうやっていないであろう。

犯人は名乗り出ろ

中学のときは、もっとひどかったが、何度も、「臨時」で体育館に集められては、喫煙飲酒をしてはいけないという説教をされていた。
たぶんそれでも、「やってる証拠」が、絶えなかったのだろう。
困った先生たちは、最後には、「一度でも喫煙・飲酒をしたことのある者は、あとで自主的に名乗り出て、職員室へ来い」という、最後通牒を、全校生徒を集めて、言い渡したのだが、そうやって、怒られても怒られても、自分には関係がないので、どうしたらいいのか、わからなかった。

子供の本当の役割とは

私は、自分の世代が、けっこう滅茶苦茶な教育をされたということについて、そんなに不満はないのである。
そういう教育を受けても、そんなにひどい人間には、ならなかったからだ。
先生たちが期待したような、立派な人間には、なれなかったが、犯罪を犯したり、他人に迷惑をかけ続けるような人間には、なっていない。
私は、先生たちは、けっこうテキトーだなあと、思っていたが、彼らが、「生徒をぜんぜん愛していない」とも、思っていなかった。
どっちかと言えば、彼らは、「愛していた」ほうだったと、思うのだが、それが、いろんな「変な形」で、あらわれていたようである。
そして、「そういう教育の過程」でしか、学べないことも、あると思う。
大人は完璧じゃないとか、ひいては、権力者というものは、完璧ではないのだ、とか。
または、子供というのは、完璧を演じている大人に騙されているふりをしてやることが、本来の役目なんだ、とか。
そういうことを「学べなかった人」というのは、大人になってから、かなり難しい人生を歩むことに、なってしまうのかもしれない。
他人が完璧であることを期待して、期待が外れるたびにクレームをねじこむ人生というのは、かなり、つらい人生と言えるのではないだろうか。