脱力日記

脱力おばさんの思い出話やつまらない日常を綴るブログ

「開かずの間」問題を考える

綿ボコリが可愛いと思う訳

田舎の家というのは、都会の家と違って、余裕があるから、一部屋を潰して、納戸にしていたりする。
それはなんか、けっこう2階だったりするので、「重さ」とかを考えたら、アレな感じなのだが、なぜか、そうなんだな。
子供のころに、母の実家に行ったときに、そういう部屋に入ったことがある。
2階にあって、母が若いころに読んでいた本があるというから、行ってみたのだが、本だけではなく、まあ、普通に「納戸化したそういう部屋」だったし、本なんかも、滅茶苦茶で、さわると土ボコリで手が…みたいな、そういう感じだった。
そう、「汚れ」というのは、最終的には、綿ボコリではなく、土になるのである。
「綿ボコリ」なんていうのは、まだ可愛いうちにしか、存在しないシロモノなのだ。
だから、綿ボコリのうちになんとかすれば、いいわけだが、土になってしまうと、もう、手が付けられないから、誰も、何もする気はしなくなって、あとは、「土化」が進むだけになるのであろう。

父の実家のほうにも、そういう部屋があって、それもやはり、2階だったのである。
もう、いろんなものが置いてあって、わけがわからない。

平常心

そういう感じが、恥ずかしいとか、そういうのは、なくて、どっかの部屋を物置きにしておくというのは、普通。
天井にクモの巣がかかっているとかは、別に普通だし、前にも書いたように、母の実家は、土間で食事をしていたから、母などは、今でも、台所では、「下」は気にしない。
とにかく、整理整頓とか、片付けとか、そういう感覚は、どっちの家にも、皆無だったような、気がする。
そういう「きれい好きな感覚」は、昔でも「あった」と言われているけれど、それはたぶんだけど「都会」だけだったんじゃ、という気がする。

日本の田舎だけじゃない

そういうふうに、特定の部屋が納戸化している状態というのは、別に、日本の田舎の家だけでは、ないようだということを、知ったのは、あるアメリカの女性が書いた「片付け本」を読んだときだった。
そこでは、「特定の部屋が納戸化している人」の話とかが、しょっちゅう出てくるのであった。
片付けの苦手な人というのは、ほかの部屋をなんとかきれいに保つために、仕方なく、特定の部屋に、不用品を押し込めるということに、なるのだそうで、そういう部屋が1つはあるというのが、けっこう普通らしい。
そして、片付けが苦手な人は、ときどき、「そういう部屋」にこもって、なんとかマシな状態にしようとするのだが、結局は、部屋から何かを出すということにはならず、右のものを左に移動させるとか、またはその逆とか、そういうことをしているうちに、半日とか1日が過ぎるとか。
ああそうなんだ、外国でも、同じようなことは、あるんだな、みたいな。
しかし、うちの親の実家では、「なんとかしようとしている」という感じは、ゼロで、「問題意識」は、なかったと、思うから、「こもって片付けていた」なんてことは、なかっただろうと、思うんだな。

陶酔感を求めて

整理片付け関係というのは、どうも「スピリチュアル」方面に行きがちで、そのアメリカの女の人なんかも、「風水方面」であって、片付けが極まると、「自分の体内の片付け」まで、やるらしく、「腸の片付け」とかも、やっているらしかった。
定期的に、人工的な方法で、腸をきれいにしているのだという。
……。
まあ、それで幸せなら、別にいいけど。
「断捨離」なんかも、名前からして、けっこうスピな感じは、するわけだが、そういえば、松居一代なんかも、片付けとスピが、一体化していたように思う。
スピと一体化しなかったのは、「捨て」は「技術」だと言っていた辰巳渚とか、「決心」だと言った板垣康子とかで、彼女たちは、スピらなかったために、スピに食われて、わりと短期間で、忘れられて行った。
だから、「スピらないと片付けられない」という傾向は、あるようなのだが、どういう仕組みなのか、よくわからないけれど、スピらないでも片付けられるほうが、いいのではないかと、思うのだが、掃除片付けというのは、やっているうちに、どうしてもスピってしまうもの、なのかもしれない。
掃除や片付けというのは、しんどい、つまらない作業だから、仕上がったときの陶酔感に酔いでもしなければ、やる気にはならない。
だから、「お金をもらって、仕事でやる」という人以外は、スピってしまいがちで、しかし、掃除片付けで陶酔している人というのは、やっぱちょっと、ヤバい感じがするから、自分も、気を付けないといけないなと、思うのだが、最近は、陶酔感を忘れ、わりとどうでもよくなってしまったので、それもまた、困るけどとは、思うのだった。